昭和52年09月19日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく出る釘は打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取り外すぞ。」

 愈々自分というものを見極めながら、進んで行けと言う事だと思うです。信心は自分自身が分かっていくこと。自分自身を見極めていくと言う事。そこには少々財産が出来たからと言うて、又は人から先生と言われる様になったからと言うて、分限者面をしたり、先生面したりは出来ない様な事ではないかとこう思う。自分というものを見つめ。自分というものを見極める。勿論ですから三宝様を踏む様な事がないわけです。足元ばかりを見ておるのですから、自分の心の中ばかりを見ておるのですからね。
 三宝様を踏むと言う様な事もありますまい。今日は身に徳が付く程、かがんで通れとおおせられる。それはやはり先生と言われ、金、物に恵まれるということは、それはそれなりのやはり人徳であったり、又は物の徳であったり、金の徳であると思います。ですから本当の徳というのは足ろうた徳。それを私はいつか五徳と言う事を頂いたんですけどね。五徳というのは五つの徳。同時に今はあまり言いませんけど、火鉢の中に入れましたあれを五徳と言いました。
 湯沸かしをかけられるあれを五徳と言う。その五徳。神徳、人徳、金、物の徳、健康の徳という様にです。人間の幸福の、いわば条件が段々足ろうて来る。五徳、そういう徳が完璧に身に付いてくるおかげを頂けば、頭を上げろと言われても、上げられなくなってくるでしょう。いわば稔れば稔る程、稲穂の様なものです。自ずと頭が下がってくる。ところが私共の場合は、そういう自ずと下がるようなものがないから、結局自分を見続け、極めていかねばならんのですね。
 ですからいつも謙虚である事を願わして貰う。心の中では自分は偉いと思いながら、例えば謙虚な風をしたのではやっぱりいけませんね。やっぱり自分自身が分かる。自分自身を見極めるという精進努力が必要。そこにはいうならば実が入って自ずから下がるのではないですけれども、いうならばそこには出る釘は打たれると、ここには表現してございますね。とかく出る釘は打たれる。よく頭を打つというがと表現しておられるね。
 久留米の初代石橋先生のことを三代金光様が、先生を評しておっしゃった言葉の中に、石橋さんは出過ぎもせず、引っ込み過ぎもせず、石橋さんこそ真の人じゃと仰ったと言う事ですね。石橋先生などは、言うならばやはり御神徳を受けておられた、一分の徳、二の徳ではなくて、足ろうた徳を受けておられた。ですから出過ぎなさらんというて、ここはという時には、それこそ絶対の確信を持って出ておいでられたね。ですから言うならば天で頭を打つ様な事もなからねば、出る釘は打たれると言う事もない。
 そこから今日の出る釘は打たれるというのは、そんなら自分が引っ込んでさえおれば、どうでももうそげな場合には、自分が出らんが一番良いと言った様な、引っ込み思案的な事になっては駄目。ここは出らなければならないと言う所は出らせて貰い、常日頃はどこに居るか分からん位に、いわば引っ込んでおって私はよいのではないかと思う。そういう精進努力が、今日の御理解の三宝様踏むなと言う事ではないじゃろうか。三宝様踏むな、足元を見とるんですから、踏んづけてはならないものは踏んづけてはなりません。
 昨日お月次祭の後のお説教の中に申しました事ですけども、昨日研修の後に。今村和子先生が御祈念中に、こう言う事を頂きましたと言うて、お届けに参りました。その事を昨日話した事でありますかね。『霊徳天命之儀』と頂いた。霊徳ちゃ霊様の徳。天命とは天の命と書いてある。はっきりこれを字で頂いとるのですね。どう言う事か私も分からなかった。次には『雪霊天命』と頂いた。雪というのは雪と書いて降る雪ですね。霜とか雪とかいう雪です。『雪霊天命』。お互いが例えば難儀を持っております。
 それはそのまま天命です。自分が幸せをしておる。それはそのままやはり天命ですね。よく、人事を尽くして天命を待つということを申します。人事を尽くすと言う事は、どう言う事かと言って、昨日小森野の高田さんが、親子でお礼に出て来られたお話をしました。息子が大学を卒業して、ある所へ就職のお願いをしてある。大変難しいところで、第一期、第二期、第三期とおかげで試験が通っていった。
 後はもう面接だけと言う所までいった。所がある人が勧めてくれたと言うのですが、本当かどうか分かりませんけど、県会議員さんか市会議員さんに、頼みに行って来なさった方がよいですよと言った。そこでやはり親心です。早速そこにまさかただで行っとるわけはありませんからね。相当何か物でも金でもお包みして、行かれたに違いありません。そうしてから気が付いた。ここまで神様にお願いして、ここまでおかげを頂いて来とるのに、一番最後になって人に頼んだと言う事が、ひっ掛かる。
 そこで改めて昨日は願いに見えました。だからお願いというよりも今日はお詫びでなからねばいけないねと言うて話した事でした、何故かというとね、私は昨日の朝の御理解が一番適切だと思ったから聞いてもらったね。昨日の御理解は煎じ詰めると、もう人間心ではおかげにならん。どこまでも神心、いうなら人間心ではおかげにならん。神情でなからなければと。年寄りを大切にすると言う事、親孝行すると言う様な事。
 只人情で親孝行が出来たり、人情で年寄りを大切にすると言った様なことは、成程親がちょっとは喜ぶかも知れん。年寄りは成程親切な人だと言うて喜ぶかも知れん。どこまでも神情だと。合楽の信心はそういう信心だと言う事を聞いて頂いたですね。いうならば超常識とか、超道徳とかという表現で聞いて頂いたですね。常識で言うたり、又は道徳的に言うたら素晴らしい事であっても、それは結局天地の親神様との交流には、ならないと言う事を聞いて頂いたね。
 天地の親神様の交流がなからなければ、私が両親に人情を使わなかったこと。それでいてもやはり両親は私を、いうならば拝み切っておった。肩を揉んであげましょう、腰を擦ってあげましょうと言う事もなかったけれども、九十三になるまで足腰が痛いと言う事もなかった。私がなでたり擦ったりしなくても、神様がちゃんと健康の上におかげを下さっておったという、話を致しましたですね。私も親孝行は言うなら神情を以てした。そこに神様との交流があった。
 神様との交流があったから、親がおかげを頂いただけではない、私自身も親孝行の徳を受けたというか、みかげを受けたと言う事になるのですね。常識的であったり、道徳信心させて頂く者は、どこまでもだから超常識、超道徳が茶飯事の中に出来てくる様でなからねばいけない。だから人間心の強い人は、いくら親切な人でもおかげを頂かんと昔から言われとります。むしろボケのごとしとる。人間心を使わない、それの方がかえっておかげを頂くということなんです。
 神様が例えば、成るほどそれは一番いよいよ最後になって、就職が出来なくなるかも知れん。けれども第一期、第二期、第三期とここまで、神様のおかげを実感させて頂いた。問題はそれだけで良いのだと。出来るとか出来んとかは別なんだ。そういう間違いないおかげを頂いて来て、出来なかったんだから、これは神様の御都合に違いないと頂けるんだと。そして神様がその子供に一番適切な仕事であり、御用を授けて下さる事を確信して行く行き方。そこには神様との交流があるから、おかげが頂くんだという。
 私の四人の息子の話を改めてしたことでした。子供が、例えば高校へ入学試験が出来ない。頭が悪い、そこで少し袖の下というかね、いうならば県会議員やら市会議員を動かしても学校に入学させたとするか。神様は一番下の栄四郎が高校卒業する時に、お礼申さして頂いとったら、神様が『士農工商足ろうた』と言うて喜んで下さった。もしなら一番下の栄四郎なら栄四郎がです。士農工商、日田の商業学校を出ましたけれども、いうならば少しマイナイでもして県立の良い高校に、例えば入ったと致しますか。
 もうそれで天地の親神様の御計画が全部崩れてしまう事になるのですよ。神ながらのものが人ながらになってしまうのです。そこに神様のいうならば広大無変のおかげに触れて行けれる、天地との交流の出来れる様なおかげを頂くためにも、そうして県会議員さんにも頼んだ、市会議員さんにも頼んだという様な事は、いかに不自然な事であったかと言う事をしっかりをお詫びしなさい。
 そして出来る出来んはもう神様に任せるという気になって、今日はお願いじゃなくて、その事のお詫びですよと言うて、話した事でしたけど、そう言う事がスッキリ自分の中に入り込んでしまわにゃいけんです。信心はねいうならば自然の働きそのものを大事にしていかなければならない。人事を尽くすと言う。人事を尽くすと言う事はね、おかげの受けられる受け物を本気で作ると言う事に、全力を上げる事が人事を尽くす事なのだと。病気から健康になりたい。貧乏から金持ちになりたい。
 人事を尽くして、それこそ人の茶碗を叩き落としてでも、金儲けをしようといった様なことに一生懸命なるということじゃない。サア医者じゃ薬じゃと言うて、もう人間で出来ることはしたと言われるけれども、金光教の信心はそういう不自然な事に血道を上げたり一生懸命になったり、人事を尽くすのではなくて、おかげの受けられる健康なら健康、お金ならお金のおかげの受けられる受け物を作る事に人事を尽くす事だ。だから言い換えると、本気で一生懸命に信心をさせて頂く。
 今まで十の信心が出来ておったなら、二十も三十もの信心をさせて頂くということが、人事を尽くす事だね。そこに天命を待つじゃなければいけない。だから天命に甘んじておって良いと言う事ではない。限りないいうならば天命。例えば運命なら運命というものは、それで決まったものではない。自分の心次第でどこまでも良い運命にして行く事が出来る。また良い運命を悪い運命にしていく結果にもなる。それこそ心一つですべてをつくるのであり、心一つですべてを壊すことにもなるのです。
 だから人事を尽くすと言う事は、その自分の心造りをすることに一生懸命になる。そこには宗教がいる。いわゆる真の信心がいる。真のいうならば教えを頂かなければ出来ないことになるのですね。『霊徳天命之儀』。私はどうしても分からなかった。だから和子さんにこのことを後から頂いとこうと言うて、控えときましたけど、昨日の月次祭を頂き終わってから、初めてこういうことだという風にして分からせて頂いた。霊徳この二十三日が霊祭がございましょう。
 だからその為の準備が神様がもうあっとるなという風に感じたです。霊様がお徳を受けられる。それが霊徳である天命之儀というのはね、霊祭とはね霊様達が一段一段御霊徳が進んでおられる儀式の様な物だと言う事。霊様達が段々霊ながらに毎日ここに御縁のある限りの霊達が、まあ合楽理念を基にして霊ながらの精進を続けとるであろう。又遺族の者が、言うならばその根肥やしをする様に、真心の奉仕をしておる事だろう。
 今まではそれこそ雪の中で凍えておる様な感じの、霊様も暖かい所に霊の助かりの道を示して頂く。そういう儀式が霊祭だと言う事を聞かせて頂いて、愈々疎かに出来ないなと示して頂きました。雪霊天命と言う事は、そういうそれこそ雪霜の中に冷たい思いをしておる霊達も沢山あると言う事でしょう。それもやはり天命なんだと言う事。どんなに苦しいところに今ある。それは期せずしてそういう苦しい事になっているのではないのです。元があって、ちゃんと天命のまにまに冷たい寒い思いもしておるのです。
 私共がそういう難儀な中からお取次を頂いて、取次ぎ助けられて行く様に、霊様もまた取次ぎ助けられて行く働きというものを受けて行かれるのですね。根が茂らずして枝葉のしこった例がない。いうならば先祖、それは私共の家の根である。心一つですべてを創ると言う事は心を肥やすと言う事、心を豊かにすると言う事である、心一つで総てを創ると言う事になる。
 いうならば家の根に肥料にも、似たような信心のおかげを頂く事によって、霊様は愈々霊ながらのお徳を受け、霊ながらの助かりを得て行かれると言う事になります。身に徳が付く程、屈んで通れというのは、これは完璧の徳と言う事ではない。先生と言われて又は旦那様と言われる様に身代が出来て参りますと、人に頭を下げる事が疎かになる。下げられない様になる。まあそういう程度の徳です。
 そこで完璧な徳を受ければです。なら本当に自分の心が豊かになり、自分の心が実が稔って参りますとです、下げろと言わんでも自ら下がる稲穂の様なもんである。だからそういう徳を目指して行くのだ。それには愈々三宝様を踏み付ける様な事があってはならない。そこで私共は自ずと下がるほどしに中身が出来ていませんから、そこに精進をする。いつも心に掛けさせて頂いて、いうなら自分の心を見極める、自分の足元を見て、自分の足元を見ておりゃ人の足元なんか分からん。
 向かいの嫁さんは、どうしたビッタリじゃろうかと。あげな障子の破れかぶれしとるとば、張りもさっしゃらんと、向かいの人が笑いよった。そしたら何の自分方の障子の破れから見とったと、言う様な事がね、お互いの中に一杯あるわけです。そげなとが陰で自分の事は分からんだからと笑われるわけです。私共もていげい笑われよろうと思う。自分というものを見極めて行きよればね、自分の破れが気が付いてくる。
 自分の汚れがいうなら分かってくる。とてもとても人の破れやら人の汚れやら、いうならば言いもされん、分かりもせん。信心とはだから自分を見極めていくと言う事。そこで足元を見ております。足元を見つめて行きます。だから三宝様踏むと言う事がありません。目が潰れると言う事がないわけです。迂闊にしておるから、三宝様踏む様な結果になるのですね。いよいよ信心は自分を見極めていくこと。
 というて石橋先生じゃないですけど、もう自分というものを見極めて行きゃ、自分はもう本当にめぐりの深い自分だと言うて、その中に閉じこもってしまってです、いうならば悲しい思いで、苦しい思いで一生終わっていく人達がありますが、それじゃいかんね。日頃の信心を頂いとって、それこそ出過ぎもせんが引っ込み過ぎもせんという様な行き方を身に付けて行かねばいけんのです。
 昨日、佐田先生が今度あちらに帰ってから、お話を聞いて来てからの話をしておりましたが、ああいう実意丁寧な素晴らしい先生のところで、どうしてあげな難儀が続くじゃろうかと。しかもこの頃から交通事故にまで遭いなさったげな、という話を聞いて来た。それが教師の会合の時に、そのことが問題になったか、言われたかでしょう。そしたらその先生が言われるのに、私の方はめぐりが深いからと言われたそうです。
 もうねもうめぐりの中に入り込んでしまっているから、心が畏縮してしまっている。自分がめぐりが深いから、めぐりが深いから難儀は当たり前と思ってあるから、いつまでたっても当たり前の中から一歩も出る事は出来ない。ほんにこういう時に合楽理念をもってするならばです、それこそめぐりは立ち所に消える程しのおかげが頂かれるのになと思うたという話をしとりました。そういう先生そういう信者が沢山おりはせんでしょうかね。教団の中には自分の家は自分はめぐりが深いから。
 めぐりの自覚に立つ事は良いですけれども、自分はもうめぐりの為に苦労するのは当たり前という行き方をしておる。それではいうなら引っ込み過ぎです。引っ込み過ぎてもならんと言うて出過ぎてもならん。私どんがごたるとはすぐ出過ぎようとするけれども。それを自分の、いうならば足元を見極めて参っておりますと、ここは自分の出る幕じゃないと言う事が段々分かってくる様になる。
 そういう行き方を、身に付けて行くと言う事が、私はこの御理解の中には、その内容としてあるように思います。今日は四十五節というのを、そういうふうに聞いて頂きました。ですから四十五節です。いつも真ん中だと、始終五だというね。どんなに例えば財産が出来ても、先生と言われる様になっても、まあだ先生の真ん中だ。まあだこの財産は、半分だという様な思いでおりましたら、財産があることに、いうなら高慢知己にもならんで済むだろう。
 先生と言われ、先生振らんでも良い事になるんじゃないでしょうかね。同時に今日は霊徳天命之儀、雪霊天命ということも、霊様のお祭りが近付いて参っておりますから。特に聞いて頂きました。霊様に光を頂いて貰わなければならない、お徳を頂いて貰わなければならない。霊ながらの精進もさる事ながら、私共遺族の者がね、霊がままになられる事のために、いうならば私共の精進をおくってあげなければならん。
 大秡信行が、天地の親神様が生き生きとして見えると、いう様に霊様への真心の奉仕が、いうなら霊様が生き生きとして、いうなら合楽理念に取り組んで、いよいよ御精進が出来られる様なおかげ。そういう精進に精進を重ねて来られた霊様達が、いうならこの秋の最中であります。二十三日に、そのいうならば位を少し頂かれる。一歩でも前進されたその儀式が霊様のお祭りだと和子先生が頂いておるのは、そういう事だと言う事が分からせて頂きました。
   どうぞ。